悲しい格差2

 さて、白内障であるが、いつから始まったのかわからない。小学生の時から近視、乱視があった。学校での、クラスの全員の前で視力検査が嫌いだった。「ええ、祐、あれがホントに見えないの〜」と誰かが必ず目を丸くするし、体育の時間に眼鏡を外すと、教師が、何本か指を立てて「これ何本だ?」と聞いてくる。テキトーに言うと首を振る。それがまた、クラスの子どもたちの話題になる。最悪。みせしめじゃん。学校きらい。団体生活嫌い。「一体」「一枚岩」「国民的」「地域のため」「学校のため」「国のため」「家のため」それらの表現には、著しく交感神経が高ぶる。

 女子にありがちな、移動教室、トイレにグループで連れ立つ。旅行の時のグループ決めで、不平等なルール「好きな子同士」、そこに入れなかった生徒とつきあうことは気を遣う。群れるのは自分に合わない。そういう子どもがどういう性格に変貌をしていくのか。

 物心ついたときから、本が好きだった。古い雑誌、もらい物の文学全集のひとつ、縁日で買ってもらった格安の漫画本は、二冊だったが、表紙と裏がべつの雑誌で、中身は、すっぽり抜けていた。詐欺商法ともいう。


 昔のことで、今と気候が違っていた。夏は毎日夕立で、停電し、雷の怖さと美しさに惹かれながら、ろうそくの光で「ベニスの商人」の子供版を読んだ。私が小さい頃に買ってもらった唯一、ハードカバーの単行本で、他に「リア王」が収録されていた。「ごうつくばりのユダヤ人」ってなんだろう…と想像した。今考えると、シェイクスピアって、公然と人種差別したなあとか、自分の恋人が男装して裁判官になっているのに、全く気がつかないアントーニオってどうよ、とかw ずいぶんませた子どもだ。芝居で受けるための戯曲なのだと知ったのは、大人になってから。

 というわけで、悪い姿勢で、楽しく読書し、誰も来ない「くらあい」図書室で、しけっぽく退色したドストエフスキートルストイ を読む子どもだった。後々、図書館はいじめられっ子の逃げ場所だと聞いたことがあって、驚いてしまった。「群れたくない」から一人になれるところに好んで自分の場所を作っていたので「逃げ場所」にされるとは、とほほってかんじ。

 脊椎関節炎関係の原因として、学校時代に「しごき」に耐えて、あちらこちらぶつけた、交通事故で身体を強く打った、工場などで働いて重たい物を盛りして運んだ、スポーツの際なにかの弾みで頭部に怪我をした、などが挙げられている。私はその多くに心当たりというか、…実際昔は「根性」と「精神論」で教育され、社会に出された。一二歳の時の交通事故が原因と書類上はあるけれど、私も、子どもの時は、学校へ上がるまでは家でおとなしくしていたので、ブランコも鉄棒も体操も、生まれて初めての経験で、突然テスト、そして、成績表はオールⅠ。「狙っても出来ないよ」と言われたw

  滑り台が怖かった。「雲梯(うんてい)」というものは、本来ぶら下がる物のようだが、クラスメイトに、上を歩いて渡ることをしいられて、従ったら、ハシゴの隙間から落ちた。やったこともないのに、跳び箱を跳び越して飛び込み前転した。首を打った。走るのは遅くて、つねにビリ。私と同じグループに入ると負けるのでみんなから嫌われ、ルールも知らないのにソフトボール大会に参加をして、バッターボックスで上級生に「走れ、走れ」とはやされて、本当に走ったら笑いものにされた。

 親は、成績が悪く鈍い私に失望し、運動会では「毎年」熱を出して休んだことにしている。一度本当に熱で休んだだけだ。家族の記憶は、「なにをしてもどんくさい気の利かない子」に固定し、年々大げさになった。今でも「なにも出来なくて役に立たない子ども」という認識だと想われる。

 面倒だから、あえて訂正しない。私が泳ぎと卓球とマット運動が得意だったことも知らないし、仕事でどんなセクハラをされたかも知らない。

 母の記憶に一番あるのは、「少しも泣かないから、おしめも替えないし、寝かせっぱなしで抱いたことがなくて、楽だった」「祐は学校と家の往復、会社と家の往復ばかりで印象にない」なのだ。まあ、いいかあ、と過ぎたことは忘れていたが、何かの拍子に母が話すと、驚いてしまうことがあった。

 親子など、このくらいで丁度良いのに、とおもう。お互いに忘れて、自分の気持ちの良いように記憶を書き換えても良いとおもう。

 
 Mon, December 12, 2016 18:20:18 ameba 2