上下左右右左

私がここ半年ほど、自分の生い立ちなどを書いていたのは、過去が憎いとか、世の中の所為だとかの恨み節ではありません。電脳世界の隅で地味に文章を書く人のつもりが、レア病のせいで、「さすがトッキーさん」と持ち上げられるようになり、どうにも居心地が悪いのです。

ここに書くものは、ブログにコピペしているものもない物もあります。はてなダイアリーが一番、己自身と向き合える、・・・ネットに何か書けば何事か在るのは相場ですが、わりと静かで、誰も読んでない感じがします。

一所懸命で「いいね」営業している人はアルバイトですかね?私はそんなものイランので気楽です。「書ける場所」があり、誰かひとりでも見てくれる人が居ればラッキー。

子供の頃、私は褒められたことが無かった、何をしてもどこを向いても叱られてばかりでした。元々の性格もあるでしょうが、他人から否定的なことを言われると、傷つきはしませんが、何が何でも、相手が気に入るまで、自分を是正しようとしてしまいます。

上下左右右左、どこを向いても私を叱る目があり、土岐川祐というペンネームを思いつく以前は、こんな風に思っていました。

崖がある。陣取り合戦のようだ、人が迫ってくる。私にねだる、私を裁く、私はおののき、退く。かかとが崖の縁にかかる。崖は遠慮無く崩れていく。私はくずおれる崖の上でつま先立ちしている・・・

掌編や詩を書いていたとき、私はそう感じていました。記憶をさかのぼり、袋貼りをしている母の横で、母の好きな戦中・戦後の歌を歌う。学校唱歌をリコーダーで吹いて、ときどき母が褒めてくれる。ヒロ子は歌が上手だ。笛も上手だ。ミシンで縫う内職の時も、同じように歌いながら布キレを数えました。どこまでさかのぼっても、母が私の手を引いて、実家や親戚を巡る。

木曽の宿場に母の伯母が嫁いでいたので、夏の多くをそこに泊めてもらったり、あるときは、私ひとりで親戚の家にいました。姉と遊んだ記憶が無いのです。父は若いときから、少しは「粋」ということを知っている人でした。中山道の歴史や木曽川に見える城跡の話、紅茶に角砂糖をいくつも入れて、ウチにあった唯一の紅茶椀の底にざらざらと糖分を残して、ふたり笑う・・・

あの記憶は、私が勝手に作り上げたものなのか、父はもう記憶を覆う霧の住人になり、この記憶は私ひとりだけで抱き続けるのでしょう。

どこのおうちに滞在しても「おとなしい子」と言われていました。自分でもわからない、なにか田舎の元気な人とは違うものを見ていた気がいたします。

そんな私が、強直性脊椎炎という聞き慣れない病をいただいて、十年近くになりました。自覚症状を辿ると、中学生の時にはもう、関節炎の兆候はありました。まだ医学が発達していなかったし、田舎のことで医療機関もありませんでした。そのことで、家族その他の人に対して何も感じませんでした。今も感じません。

私は家の中では「不要品」みたいでした。何事にも自信が無く、消極的。それがレアな病気の掲示板を作り、さらに他の人のけいじばんを引き継いだことで、狭い世界で名前だけ一人歩き。たまに誘われてチャットしても、「ハイテンション」などと言われたり。ううん、一生懸命あわせているだけなんだけど、と思ったり。

母は文盲だとツイートしたら、高齢でも学問した人の話をリンクされました。他にも不幸を乗り越えた人が居るから、私の母も努力するべきでしょうか。学問は、それを受けられるおうちと、そうで無い家がある。ルーツは不明ですが、たぶん母方の父は、どこかから流れてきて、定住した小作人で、戦後農地改革で田畑を持った人なのでしょう。

学校へ上がる前から「子守奉公」、後に妹が引き取られた家に奉公し、実の姉なのに、他人として育ちました。「かあちゃんはがっこういっとらんでわからん」私が何を聞いてもそう言う人でした。他のお母さんは家庭科でもなんでも手伝ってくれるというか「やってくれる」ので先生に褒められるのに、私は自力で、学校で「悪い例」として皆の前で晒されました。

親子でものすごいコンプレックスを持つ育ち方をしたことになります。今年ほど自分の生い立ちや家族のことを書いたのは、長いネット経験の中、初めてのことです。

とあるSNSでは、どの大学院を出たか行くのか、そういうもので差別化したり罵ったりしていました。高卒で主婦の私には理解できない世界でした。恥ずかしくて年齢も学歴もなにも言えませんでした。

でも、今は言えます。レア病が、私に「しっかりしろ、自分で決めろ」と教えてくれたのです。私はスマホで読むには長文過ぎる。私は自分のことばかり書く。私はそれで良い。他人にわからなくて良いのです。「何でもできるトッキーさん」はなにもできない鈍くさい子供という親や先生や級友の視線が怖くて、ひたすらおとなしくしていただけの馬鹿な女です。

母が本当に文盲だと「知った」のは、嫁いでから、時折、私が手紙を書いた、そして返事が来ると、旧仮名遣いのひらがなでみじかく、生まれて初めて、実母が気持ちを文章にしたものを見たのときでした。

「おかあちやんはぢがわからんでこんなみぢかひのしかかけんごめんね」

妹の引取先から学校へ行かせてもらったとき、戦争は田舎の隅々まで染み渡り、校庭で芋掘り、町で糸引き、そんなことばかりしていたのでした。母が哀れでした。

中学から製紙工場に雇われて定年まで工員として働いた父、テレビの白黒画面で、洋画を見た。夜勤明けは静かにと言われていたので、目一杯じっとしていると、単車の後ろに私の乗せて木曽川へ連れて行き、日本画家の記念館を見せてくれた。そしてういろうを食べながら甘い甘い紅茶を飲む、知的な父。