【三島由紀夫と私】 三十回目の憂国忌に

  初めて読んだ三島作品は『金閣寺』だった。高校の時、現代国語の夏休みの課題図書で、休み明けには それが国語のテストになるのだった。詳しいことは忘れたが出来は悪かったと思う。しかしそれがきっかけ で三島由紀夫の本を読むようになった。
 本を読んでいると意外な結末とは滅多に出逢わないのだが、『豊饒の海』は意外な結末だった。ずっと以 前、まだ読書体験の少ない時期に読んだのでそう感じただけかもしれない。この作品は輪廻転生の話だ。 一巻において、二十歳で死んだ青年・松枝清顕が、二巻、三巻と別の人間に生まれ変わり、やはり皆二十歳 で死んでしまう。その経緯を、一松枝清顕の親友・本多が見守っていくのだ。そして最終の四巻で三度青年 の生まれ変わりと推測される青年に出逢うのだが、(ネタバレします)どうやら彼は「偽物」らしい…。 衝撃を受けた本多は、一巻で死んでしまった青年の恋人に会いに行く。青年との恋愛の果てに尼寺に身を寄 せたはずの門跡は、 「えろう面白いお話やすけど、松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はも ともとあらしやらなかったのと違ひますか?」 と応えるのだ。『豊饒の海』は三島由紀夫の最後の作品。三島由紀夫自身の存在を幻としたかったのではな いかと思わせるラストである。

 難しくて敬遠しがちな三島文学だが、比較的気楽に楽しめる本もある。『反貞女大学・第一の性』(筑摩 書房)「反」「貞女」「大学」というネーミングが既に時代がかっているが、面白い。  「女大学」の貞淑に反対し、男の哀しさを笑いながら、逆説的に女性の生き方にエールを送っている。 -引用- 人間生きていれば絶対の誠実などというものはありえないし、それだからこそ人間は気楽に生きていける のだ-中略-『絶対の誠実』などを信じている人たちの、盲目と動脈硬化はおそろしい。 -引用終わり- とても良い結びである。

 『第一の性』はヴォーヴォワールの『第二の性』から採ったものらしい。諧謔を発揮しながらの男性論。 いろいろな著名人について語り、最後に「三島由紀夫という小説家」について書いている。とてもかわいい 男だと思う。三島由紀夫三十九歳の作品。彼が大嫌いだった太宰治は三十九歳で入水自殺している。 「しかし、彼も亦、一個の男子である。何かそのうち、どえらいことを仕出来すこともあるでしょう。」 最後の辺りでそう書いているのが悲しい。
 三島作品としては変わったところで『音楽』も好きである。解りやすいし、今読んでも興味深い精神分析 医の話である。『午後の曳航』は少年犯罪、『青の時代』は破綻した青年実業家が描かれていて、バブル後 の不景気や少年犯罪の問題など、時代を先取りしたとも感じられる。

 日記やエッセイなども面白く、現在、社会に揉まれて悩んでいる人が読んだら共感できそうな、三島由紀 夫的、社会・人間に対する深い洞察がある。  評伝に書かれた、祖父・父・三島、祖母・母・三島の三代の相剋も興味深い。明治・大正・昭和、時代の 激変の中で生きてきた家族、家庭の姿には、多くの疑問や煩悶を感じる。  第二次世界大戦当時、三島由紀夫の学友達は海軍仕官を希望するものが多かったという。陸軍は評判が悪 かった。片田舎の貧農出身の若者が多く、軍隊としての統制を欠いていた。海軍は高学歴エリートが多く、 比較的に人気が集まっていた。三島由紀夫は兵役検査不合格で戦争に行っていない。

 太平洋戦争末期、戦況の悪化を理由に学徒出陣が強行された。東条英機はずいぶん喜んだという。テレビ で、学徒出陣を経験し生きて帰ることができた人々のインタビューを観たことがある。現地へ行って、 「これはダメだ、日本は負ける」 と思ったそうだ。兵隊は訓練されておらず、イジメが横行し、上官は無能、敵国に情報が全て漏れている、 下級兵士は弾よけ扱い。いきあたりばったりで何も考えられない軍隊が現場で右往左往していた。

 三島由紀夫は大正十四年、東京市四谷区に生まれた。借家ではあったが女中が六人いる家で育った。昨年 の十一月二十五日は三島由紀夫没後三十周年。大型書店に行けば、特集雑誌や復刻版の評伝などが特設され ていた。それらをいくつか読むと、三島由紀夫は時代のスターだった。  その生い立ちに大きく影響したと思われる事件が、三島由紀夫十二歳、学習院の生徒だったとき起こって いる。二・二六事件。彼はその時代の空気を直に吸っていたのだ。

 ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫-ある評伝-』(新潮社)は、外国人から見た三島由紀夫の姿とい うことで、非常に興味があったのだが、今まで本が手に入らなかった。他の評伝にはこの本のことがよく引 き合いに出されていたのだが、三島由紀夫夫人に出版を押さえられてしまったことがあるようで、読むこと は敵わないと思っていた。それが今年どうして復刊されたのか事情は知らない。

 三島由紀夫の祖父定太郎は農家の出身、苦学しながら二十九歳で法科大学(東大法学部)を卒業し、当時 「平民宰相」として人気を集めていた原敬のもと、官僚となった。祖母なつは大審院判事永井岩之丞の長女。 なつの母は宍戸藩主松平頼位の息女。(しかし正妻の子供ではなかった。)二人がどういった経緯で結婚し たか、説明のある評伝をまだ読んだことがない。

 板坂剛『極説 三島由紀夫』では、なつが、行儀見習いに預けられた有栖川宮家の親王と恋愛していたの ではないかと推測している。平成の今、私にとって、そういった「身分」の話は身近でないが、三島由紀夫 にとって十二歳まで彼を育てた祖母の影響は大きい。武家の出自で公家にも近しい経験を持つ祖母の、優雅 で華麗な王朝物語の世界を、三島由紀夫は受け継いだ。

 批評行為は批評の対象となる作品への、作者と同等以上の知識、人間的包容力、理解がなければできない。 三島由紀夫太宰治が嫌いだった。評論家は、「好きと嫌いは表裏一体だから、三島はホントは太宰が好き だった。」とか「太宰の才能に嫉妬していた。」と書いている。

-引用-
太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される 筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。(三島由紀夫『小説家の休暇』より)
-引用終わり-

  私は、人間思ったことと書くことにはどうしても距離が出るし、思ったことも表層と深層意識では無自覚で あっても、かなりの差があると考える。が、ここまで書いていて好きの裏返しなものか。

 『新版・三島由紀夫-ある評伝-』は文章が良い。これは訳者(野口武彦)の文章力だろうか。文章には 人格が表れると思う。私がものを書くと、「私の痛み」が目一杯盛り込まれてしまう。書くことを感情のは け口にするまいと思っていたけれど、感情で生きているものを、それ以外の形にして昇華するなど、どだい 凡人には不可能なのである。
 三島由紀夫の評伝を読んでいると、そういった今の自分と重なるところがある。 芸術家と自分を重ねるのも図々しいと言えば図々しいけれども、小林秀雄が書いたように「批評とは他人の 作品を通して自分を語ること」ならば、ジョン・ネイスンは三島由紀夫の人生を通して自分を語っているの である。
 ネイスンは私が注目した部分と同じ所を引用していた。

-引用-
生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならない(『小説家の休暇』より)
-引用終わり-

  太宰治に対する文章だ。これに続く、「治りたがらない病人などは本当の病人の資格がない。」について、 「ほかならぬ自己自身を病人と見ている三島の感覚であり、そこから回復しようする意志である」(ネイス ン)と書いている。著者は『午後の曳航』の訳者であり、三島から新しい小説の英訳を頼まれ、期待を持た せたにもかかわらず、大江健三郎の作品を手がけ、三島作品を「世界中でいちばん金ぴかな額縁の展覧会に 行った。」と評した。しかし、そこには三島由紀夫に対する点数的な評価態度は感じられない。人の一生を 真摯な態度で「評伝」として一冊の本にした、という印象だけが残った。

 三島由紀夫はマザコンだった。十二歳まで「お母さま」に甘えることを許されなかった反動だろうか。 三島の死に際して、『新版・三島由紀夫-ある評伝-』には、ネイスンが彼の母倭文重の言葉を、痛みを持 って受け止めたことが描写されている。

-引用-
『お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威(三島のこと)がいつもしたかっ たことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな。』  弟千之が語ったような『いつも存在しようとしながら存在できなかった』男のために、喜びを表明するこ とはなまやさしいことではない。
-引用終わり-

 三島の評伝には、「なんだかこの人は『好き』が高じて悪意の批判をしているのかしら」みたいな感じがするのもあるし、「思想的立場に左右されてるのかな?」もあったし、故人と親しく、哀惜のこもった作品 もあった。
 平岡梓『倅・三島由紀夫』を読むと、三島由紀夫自身と彼の父親とは、魂の部分で共有していた ものは何一つ無かったのではないか、という気がする。
 三島由紀夫が松の木を指して「アレは何の木?」と訊いた、というエピソードがある。学習院の敷地には 松が植えてあったし、小説の題材は何でも入念に調べる三島が、松の木を知らないはずがないので、冗談説 や分裂症気質の症状など、色々と物議を醸しだしている。
 小説『美しい星』を書くに当たって、三島由紀夫はUFO愛好の会に参加し、一時は熱狂的UFOファン であったとか。作品はSFを愛好する人ならば「ありえない設定」である。木星人、金星人などなどが登場 するのだ。三島由紀夫は松の木を知らなかったのだろうか。SF愛好者の定義から外れる設定を「知らない で」書いたのだろうか?

-引用-
 小説における『まことらしさ』という問題が、大てい、作者とその小説との密着した関係によって保証さ れるという現状である。-中略-つまり読者は小説を小説として読む習慣を失ったのである。-中略-私は 日本における小説の読者が、いかに「素朴なリアリティー」にとらわれて小説を読むことを愛するか、とい う言い古された現象をもう一度提示するにとどめる。
-引用終わり-

-引用-
 今私が赤と思うことを、二十五歳の私は白と書いている。しかし四十歳の私は、又それを緑と思うかも しれないのだ。それなら分別ざかりになるまで、小説を書かなければよいようなものだが、現実が確定した とき、それは小説家にとっての死であろう。不確定だから書くのである。四十歳になって書きはじめる作家 も、四十歳に達したときの現実が、云おうようなく不安に見えだすところで書きはじめる。真の諦念、真の 断念からは小説は生まれぬだろう。
-引用終わり-(三島由紀夫『小説家の休暇』より)

 後年、三島の思想活動に対して「あなたはいつ死ぬんですか?」と言った文化人がいた。三島は著作の中 でそのことについて書いていたし、各種評伝もそのことについてふれていた。言った側の悪意を感じる。 大塩平八郎の如く陽明学的に、「実践して死ね」と言いたかったのだろうか。  また、『憂国』を読んだファンが「興奮した」と三島に言い、それについて彼は「私の小説はポルノとし て読まれたのである」と書いていた。映画『憂国』も、多くの人が、情交シーン目当てに集まったという。
 評論家奥野健男は『三島由紀夫伝説』の中で、『憂国』の切腹場面の描写が苦痛で読めないという主旨を 書き綴っている。私もあの描写はダメだ。たとえ「小説」としてでも読めない。
 ある作家だったか、批評家だったか、「君は平民なのに何故華族を描くのか」と三島由紀夫に訊き、三島 の方は絶句した、という話が印象に残っている。前述の奥野健男は、同じ学習院で「平民」と書くのが辛か った、と書いていた。三島作品の中で、華族の子息たちを描写したものがあり、それらを読むと、三島由紀 夫が必ずしも華族に対して無邪気に憧れを持っていたわけではないのが解る。

 『テロルの現象学』(笠井潔 ちくま学芸文庫)も三島由紀夫について批評している。けれど…
-引用-
三島の『天皇アナーキズム』論に帰結した右翼的・天皇主義的革命思想は、左翼的・マルクス主義的革命 思想よりもはるかに重要な思想課題を提起している。それは一方で『宗教-法-国家』という共同観念の 累積史に内在する謎めいたものに触れているばかりでなく、他方で党派観念を媒介しない自己観念と共同観 念の「直結方式」という、観念の発生史における固有の水準をも体現しているからである。
-引用終わり-
 …読んで意味解る人は偉い。じつに笠井潔らしく色々と論じていらっしゃるが、つまりは 「筋肉とプロポーションが衰えるよりも前に早くに死んでしまおう……。」ということらしい。
 三島由紀夫の作品を読んでいると、三島由紀夫はお年寄りが嫌いだったとしか思えない。
 澁澤龍彦は 『三島由紀夫おぼえがき』で、「あれだけ鍛えた腹ならさぞ切り甲斐があったろう」というようなことを書 いていた。真面目で融通が利かなくて、ついからかっちゃってたんだけど、ぢつは、彼のことが大好きだっ たんだよ、みたいなノリで書いている。その言葉の端々には三島由紀夫の死に対する哀しみが窺える。三 島由紀夫が、本当は何も信じていなかったことを、澁澤龍彦はよく理解しているという感じがした。

拝啓
 三島由紀夫様 お元気ですか? といっても三十年も前に死んでしまった貴男ですが、 手紙とはこういう書き出しなものなのです。
 お友達の辻井喬さんは「三島由紀夫は孤独だったのだ」 とお書きになっていました。孤独でしたか? 自信作は批評家に酷評される、力作はプライバシー侵害 で訴えられ敗けた、売れた作品はファンが誤読していた…。
 孤独の意味を人は観念として捉えることが 出来ません。物質的な目に見える孤独しか理解できない人が、物に囲まれて満足しています。どなただ ったか著名人が「三島由紀夫は青春を謳歌した経験がなかったのではないか」というようなことを書いていましたが、自分の青春を基準に他人のことをとやかく言ってはいけませんよね。
 大人になってから ボディービルをして、映画に出演して、私設軍隊(?)作っても、いいぢゃありませんか。子供時代に 喪失したものは取り戻せないけれど。
 どーせなら百歳まで生きて万年青年を気取ればよかったのに。歳をとるっていけないことですか? 「デリカシイのないのは、子供の会話で、びっこの子をつかまえて『やーい、ビッコ』などと言って いる。女の会話も、無意識にしょっちゅう相手の禁忌に触れ(後略)」とお書きになっているような デリケートな貴男ですもの。死後、ご自分についていろいろな批評が出ていますから、ご覧になったら 頭に来るかと思います。貴男の名作『金閣寺』は、主人公は吃音で、その友達は足の不自由を逆手に取 り女たらし。そういうのって、人は禁忌に触れたがらないので考えないけれど、禁忌だということを 自覚できなくて、無遠慮に誹謗したりします。
 三十年経っても人間の感情って変わってません… 貴方が生きてたら、やっぱり、ドイツもコイツ もけしからぬ「『絶対の誠実』などを信じている人たちの、盲目と動脈硬化」を嘆くことと思います。
 先日、貴男があまりに嫌いだと仰るので、太宰治の本を買ってきました。なんだか文体が読みにく くてかないません。けれど、
「人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違い をしているような気がして、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。」 (『人間失格』より)
 …これって、貴男も同じぢゃ、なかったですか? 私は同じです。
 そういう気持ちに思い当たったことの無い人の方が異常だと思います。自分に疑問を感じない人は、 小説など書く必要がありません。「作家」と呼ばれたいと願うことと、自分の中の矛盾を小説として 書かずにいられない衝動は全く種類が違います。貴男も太宰治もそういう質の人だったのかな、と考 えたりしています。三十年目の『憂国忌』は盛大だったそうです。    敬具

 笠井潔の『哲学者の密室』に、「『死』に特別な『死』はない」という意味のことが書いてあったと記憶 する。「存在」の哲学的意味を問い、ナチスの虐殺行為を描写し、「崇高な死」「特別な死」などあり得な いと…。
 他者にとって三島由紀夫の割腹自殺は、マスコミ報道のネタだったり、評伝の題材だったり、読者 の好奇心だったりしたが、三島由紀夫自身にとって、死に向かって走っていた時が一番「生きて」いたのか もしれない。
 皆が三島由紀夫に利用された、裏切られたと感じたらしい。その思いはどこから来るのだろう。皆、三島 が好きだった。三島の「一番」になりたかった。三島に自分を認められ、自分の求める三島を欲しがった。 ところがそれらは、三島自身が他人に受け入れられたがっていた三島とは、少しずつずれていた。人は誰で も、自分の理解されたい部分を受け入れない他人を、許容できない。受け入れられないのならば、自分の荷 物は自分で運ぶしかない。三島由紀夫はそうして自分の荷物を運んだのだという気がした。最も三島由紀夫 を受け入れることができたのは、三島を介錯した森田必勝だったのだろうか。


2000.1.6