失うとき

 医師は私を否定し、家族は頼る。もう保たない。家事を頼みたくて、市の相談員と話したら、手帳がないとヘルパーは頼めないという。それで手帳を申請して取得できたのは幸運だと思うか、等級により、使えるサービスが決まっている。私の 二種二級だと、散歩の「付き添い」運転の「付き添い」買い物の「付き添い」など。
 家の中であれば、居宅介護といって、家事の手伝いをしてくれるが、それは、洗濯をするとき、できないことに付き添う。見た目は健康そのものだけれど、とにかく出来ない、痛いとか疲労とか怖さは関係ない。いつか慣れてくる。どうしてかわからないけれど、自分に最低限必要な生命力さえなくして、
批判されればされる程に、地球の引力がおのれの重みをずっしりと地面に押しつけて、身動きできない感じ。

 食事を作るのに、できないことを付き添う。というように、本人がねたきりでも、「付き添い」だけで、「代わりに」ということはない。地区自治会の、「ゴミ置き場の掃除」を民間の業者に頼んだが、水を運ぶ「付き添い」しかできないので、内緒で水のポリタンクを運んでもらった。ブラシと洗剤で、しみ出た生ゴミの汁をこする。持ち手が長いので、杖の代用品にもなる。越してきたとき、ゴミ置き場の寄付をしたと、自慢なのか恩を着せたいのか、金額を言ったり、自分の家の車種を言ったり、孫がスマホを上手に使う…など、私には興味の無いことを、まくし立てて、
「汚いゴミ袋は中身を開けて誰か確かめる」
と言い放ったことが、恐怖感を煽って、思い出してはゴシゴシ。後から全身が痛くなり、また動けない。
 味覚、聴覚、恐怖、感動、その他の刺激が全部、元気なときの100倍になってしまう。

 だが、付添は、本来、家族のいる人は利用できない。当日それを聞いて、勤務時間が夜の娘が眠っていたので注意された。塾に勤務している。朝方持ち帰りの仕事を終えて、少し眠って、午後には出勤する。この繰り返し。夫は日勤。3人で暮らしていたか、生活のサイクルはバラバラ。
。目覚めた後、午後になるまで全く動けない私を、付き添ってくれる人はいなかった。
「ヘルパーはお手伝いさんじゃないんだから」
と断られた。娘は、
「私が家にいるから悪いので、私さえ、家を出て行けばいいのね。」
といって、アパート暮らしを始めた。経済的理由から 1年しないうちに戻った。アパートを借りていても、親の家でシャワーを浴びたり、眠る。ひとりで二カ所を使っているのだから、経済的に破たんした。

 夫は、掃除選択を一手に引き受け、年ごろの娘の大量の衣類を、洗って干し、クリーニングに出し、その費用は夫もち。会社にいく服も変えず、季節ごとに私が買って与えた。最後は、アパート引き上げるとき、不払いしていた水道代、リボ払いのカード会社から来た督促状、すべて私が支払した。衣食住すべてを担う夫は疲れ、私と似たような痛みのある病気を発症した。私が病気になる以前は、お金の管理から食事、付き合いごとまで、すべてをこなしていた。それが突然、、見えないところを片づける人がいなくなったので、面倒なすべてのことが夫と子供に向いた。
 そうなる前に、きちんと子育て、きちんと夫の世話と教育をしていればよかったのか。正直、私は、実家の親と嫁ぎ先の親、病院の送り迎え、子供の学校でのいさかい、近所付き合いによって起こったもめごと、金銭の管理、異様なまでに偏った食事の好み…一人で抱えきれず、苦しくてたまらなかったが、長男の嫁になるというのはそういうものだ、と、結婚が決まった瞬間から、人生をあきらめていた。どんなに尽くそうと、人間は満足しない、感謝もしない。
 躾けても、生まれもった性質は変わらない。そばにいる方が合わせるしかない。

 朝昼晩の忙しさを縫って、絵を描いたり、本を読むのがが好きだった。テレビなど、夫がリモコンで、突然チャンネルを変えれば腹立たしいだけで、みる気もしない。子供に合わせてアニメを見て、子供の好みに受け答えする。私が自分で考えたことは実行不可能で、人に話すこともできない、見えない楽しみだった。質素にやりくりしながら、手製の縫い物、食べ物、古い社宅を飾りつけ、免許を取って、夫の親を、毎月送り迎えした。入院すれば、毎日通って、洗い物をした。

 精いっぱい気を遣った。そして時々、爆発した。

 夫が転勤したり、娘が大学に入り一人暮らしを始めると、少しは時間ができたので、日帰りできる山に登ったり、油絵を描いたり、写真を撮った。それをホームページに載せた。読書感想もたくさん書いた。オフ会も主催した。

 発病前の、多角的な生活を、福祉の面談などで、聞かれるままに答えると、「私はそういうのは駄目だわ」
「統率力があるんですね」
など、私からすれば、立場上そうならなければならなかったくるしみを、的の外れた、人を仕切る性格と受け取られた。その真意は、私には計り知れない。私の発言が福祉とは関係なかったのか、他人の事情をくみ取る人は、元々いるはずがなかったのか。

 その後、「居宅介護」はあきらめ、家の外のことは、自治会だけなので、自治会を抜けた。当然、地元の人とけんかになった。自治会はいろんな理由を付けても、本音は、
「オレもやったんだからおまえもやれ」
と言いたいのが、態度で、手に取るようにわかるのだ。市役所に相談しても「組織が違うのでどうしようもない、なにも出来ない」というので、全国的な自治会の組織を検索して、電話相談をした。うちの県は全国的な自治会の組織に入っているのは、県庁所在地にある市だけで、他の自治会は、組織ではなく、地元の自主的かつ強制的な集まりであること。本来の自治会では、身体の悪い人や、高齢者を互いに支え合うのが目的であるのを知った。
「そちらの自治会は本来の目的の真逆ですね」
と同情していただいた。

 難病になったら、家庭も近所付きあいも、なにもかも壊れたので、自己の自然な生命力に従い、ひとりになり、窓の景色だけを見ていた。