父の死

https://tokigawahiro.hatenadiary.org/entry/20181228/1545999632

 ここに家族のことを書いておりますが、唯一愛していた父が今年一月十一日に他界しました。

 

 いままで多くの葬儀にまつわる行事に呼ばれて、黒エプロンで死ぬかと思うほど作ったり運んだり酌したり、もうダメだと思ったところでレア病になったので、今度はリクライニング車椅子が邪魔な部外者になりました。

 父の転院場所も知らされず、死に目にも会えず、言っても露骨な冷たい目。初盆には連絡も来ませんでした。

 私は、匿名掲示板に卑怯なことを書かれるとき、「自分語りをやめろ」という内容のものが多かった。そもそも創作の裏サイトなので、目立つと嫉妬で書かれるのですが、創作は創作、自分の事情など一つも書いていませんでした。「知りもしないでよく書くな」と思っていました。「土岐川は世界を憎んでいるんだ」とか。

 そこまで壮大に何かを憎むのも大変だろうなぁ。詩も小説も私が書いたので私の意図に基づいてある。アニメとバンドとゲームと学歴にしか興味が無い若い人には理解不能かも。くらいに思っていました。

 ブログなどにはちょこちょこ思うところを書いていて、実家について「缶ジュース一つもらって帰ったことは無い」というところに強く反応し「相当荒れた家だとわかる」と感想をいただいたことがございます。

 

 もうなにをどう書いたら良いのかわからないほど完全に壊れた家の中で、父だけが唯一の愛でした。でも、母と姉は常に父をばかにして罵りまくっていました。父に似ているという、自分ではよくわからない点で私も憎まれていました。

 葬式の日、何でも気に入らない姉は悪態のつきまくりでしたが、親戚知人が来るたび、涙をこぼして「お父さん、良かったね」と父の遺体に話しかけていました。私の夫が、そういう姉を「気持ち悪い」と言っておりましたが、私と父以外の人には外面が良いのはわかっていたので、まあこんなものだろう、と感じていました。

 

 私にできることは人の邪魔にならない隅っこで、多くのいとこたちが話しかけに来るたび穏やかに笑いながら、頭の中で急ピッチで名前を思い出して答える、それだけ。多分そういう私にも腹を立てていたと思います。姉の家族はね。

 

 私の中の父は、子供に甘く優しい人でした。でもなぜか実家の人たち全員が小馬鹿にしている。今更何をしても通じないし、父の死んだ今は、なるべく関わり合わないように、私は最初からいない人のように振る舞うだけです。実家の隣がいとこの家なのですが、初節句について電話したところ「もうあきらめろ、付き合うな」と釘を刺されました。母がプチ家出したり、心の重荷を話して歩いた親戚に対しては、姉は絶対に許さないでしょう。

 彼女はよその人から「いい人だ」と思われて愛されたい。一人では無く、大勢の人から愛され味方になって欲しい人です。子供のと聞から「跡継ぎ」「嫁がせる子」と区別して親に躾られ、嫁いだ私を「ひろ子はいいね、自由になって」と言いました。

 限界集落に嫁いで、いきなり高齢化問題に付き合わされ、異文化の中に立たされ、古い家の長男の嫁を演じる私の苦労など、つゆほども想像できない。

 母は母で、私が姉の言うことを聞いても姉が気に入らなければ、怒って電話し酷いことを言う人です。なぜか親戚中そういうタイプなのですね。

 同級生の友達など「誰か人を介して和解しろ」と言うのですが、私にその気があっても、姉は私の存在を無くしたいのですから無理。

 ウィルス騒ぎのさなか、父のいない空虚と、ストレスを抱えて、こぼさずにおとなしく寝たきりをするのはかなりつらいことでした。

 

 生前の子供をかわいがる父は、父方いとこたちには有名でしたが、姉の二人の子供だけが意味がわからずきょとんとしていました。

 三年近く、病院を移りながら、一時帰宅しても連絡をくれませんでした。なにがなんでも私を家に入れたくなかったようです。

 でも父は最初から最後まで「家に帰りたい」と言い続けました。病院へ会いに行っても、私を認識していたかどうかもわかりません。

 父は他界し、私が死んだら、もう誰も、本と自然と歴史と、甘い紅茶にういろを添える、ただ笑い合って甘い飲み物の底に沈んだ角砂糖を掬う、あの父は、もう私しか記憶していません。