人は誰も

「ただ一人/旅に出てぇ」と続いて、意味のわかる人は少ないだろう。例えわかっても同世代とは言えない。ちょっと笑う。
 人は誰も、自分というメガネですべてを観ている。客観視は、客観的に思考しているだけで、本当の客観は無いようにおもわれる。
 事実は一つだが、人間の真実は人口分ある。わかっているのに、詩や掌編、コラムなどを書いて、「誤読されたくない」と必死になって書いた。自己愛と甘えの10年くらいがなつかしい。

 発病して、ネットする元気も無く、ただ、横たわって、テレビの音も聞いていなかった。ひたすら苦しかった頃、今のように、ちょっと昔に戻って物を書いたり出来なかった。登山と同じくらい、書くことと描くことを愛した。

 女性の場合は、結婚を機に人生が変わる。多くの人が、結婚前に望んでいたような輝く自分から遠ざかり、家に縛られて、大切な物を失い、「こんなハズでは無くて、もっと自分には何かあるはず」とおもう。

 けれども、多くは錯覚で、私は最初からなにも持っていなかったと感じる。他人の顔色ばかり窺い、遠慮し、遠慮して譲るごとに、相手が図々しくなっていく。それから相手が満足するまで努力して、相手はどこまでも、もっと私に何かを求める。自慢しない、勝たない、わざと多様なそぶりも見せない、「祐のよう気遣いできない」と怒りを持って、私から離れた人もいた。

 どうして、私はもう少しおのれに優しく出来なかったのか。「もうこれで、精一杯で、これ以上は出来ません」と正直に言えなかったのだろう。
 なぜ、なにもかもを一人でかたつけようとしたのだろう…

 若い時代だからとムリにムリを重ねれば、直ぐに心身が尽きてしまうのに、自分を大事にしなかった。「これでもか」と捨てて見せた。

 「愛」を信じたことが無い。あるとすれば「自己愛」しか人にはない。むかしむかし、ネットで男性につきまとわれた。「やさしくしてくれたらやさしくしてあげる」「愛してくれたら愛してあげる」気に入らないと嫌がらせし、毎日が嫌がらせだった。つまり、彼は「愛される自分」が好きな上に、「愛する相手より一段も二段も上になっていたい」考えを持っていた。

 その後も似たようなタイプの人と仲良くなりがちだった。「私はあなたのお母さんじゃ無い」と言えば良かった。学歴があり、私よりも若く、裕福だった。それなのに「修業時代」の無い人たちだ。

 ネットはいやなところだとおもった。それでも、限界集落の長男の嫁をやるより楽しかった。生まれながらの「次女」よりよかった。足を忍ばせ、音を立てないように、息を殺して、親の家にいるよりは、ずっと幸せになった気がした。

 嫁いでから、私の実家の様子を見て、私はなにも言ったことがないのに、夫が「あなたはかわいそうなひとだ」「よくあの家に20年もいられたね」と言われた。指摘されるまで、自分が息を潜めて生きていたことに気がつかなかった。さらに、ネットを覚えて、HTMLを覚えて、無料提供のチャットや掲示板を作り、創作のサイトを作り、心から誇らしい。
 アクセス解析や、宣伝なんて要らない。読者が少なくてもかまわない。ただ、作ることが楽しかった。

 訳のわからない誤読で書き込みされるのだけがいやだった。「人間皆誤読だ」「いろいろな読み方が出来るのは幅が広い作品だからだ」という意見もいただいたが、自分の言いたかったことをくみ取ってくれる人が一番だ。
 ただ、わかってもらいたいなんて、そんなレベルの低いことには興味が無い。私の書き物を読んで、表現しようと意識して描いたことを「読んでくれる」「行間を読んでくれる」そういう人を愛した。
 それは確かに自己愛なのだろうが、モンゴメリ風に言えば「我を愛せよ、さすれば我も愛す」だ。