フィフティーフィフティー

 うちの自治体は、「離れ」に一人で住む人には介護が受けられる決まりだ。丁度、桝添元都知事の別荘問題で、テレビを付ければ別荘の画面になっていた。特定医療係や福祉関係に電話をして、「離れ」を作って一人住まいできるお金持ちは家族がいても介護サービスがある、桝添さんじゃあるまいし。お金がないから一つ屋根の下で縮こまっているのです。」とアピールした。実は、家族が同居でも、理由によっては介護が受けられる。高齢者になれば介護が受けられる。高齢者にはまだ遠い。

 あまりの不公平さに冷静で入られず、興奮してまた薬を飲む。公共の福祉に頼らない、相談しない方が、気持ちが静まるし、電話代も要らない。また、「不公平」だと考えないように、「フィフティーフィフティー」の人間関係は、届かない「理想」だと思うようにした。子どもの時から、希望を捨てているつもりでも、どこかで半分は他人を当てにしていた。

 私は、娘に手助けを頼むのが嫌いで、いつもタクシーで用事を足していた。書類に番号を書く手続きをすれば、僅かに割引があるが、それでは役に立たないほどタクシーは高い。到着した先で、手続きしていると、他の車から降りてきてどなられる。運転手自身の習慣で、さっさと降ろしたい気持ちも伝わってくる。杖程度なら良いが、車椅子だと困惑顔を見せられる。悪気はなくても、どうして良いのかわからないのだ。

 発病時、娘は、仕事の関係で別居していたが、上司とうまくいかず、「やめたい」と悩むのを、聞きながら、理解を示しつつ、解決せねば、と思い、
「とりあえず、入社した時にお世話になった幹部のかたに相談してみては」
と案を出した。結果、表向きは、私の病気の看病、ということで、私の家に来た。
 夫も、転勤と、私の入院をきっかけに、私の家に越してきた。私の家といっても、一家のあるじがお金を出したものであるから、「私の」というには語弊がある。当時はまだローンの返済中だったので、銀行のもの、といえる。
 だが、私の家、と心の中で決めていた。結果と付き合いがなく、嫁ぎ先は世話するのが大変で、社宅は古くて狭く、人間関係もむつかしかった。転勤が多く、引っ越した先々で、地元自治会の役員を押し付けられるのもいやだった。
 親の世代の付き合いを、一人担って、冠婚葬祭に付き合う。へき地であれば、近所づきあいも複雑で、独特の風習があり、一般常識が通用しなかった。

 寝たきりになったことで、親せきづきあいはしなくて良くなった。体も苦しくてたまらないが、それだけはうれしい。結果の母が、「プチ家出」してきたのは、退院後、「もう二度と治らない」と宣言した時より、前であった。すでに動くのがつらく、突然親せきを連れて、勝手に理解を探し回り、2階で寝込んでいる私を見つけて、その後も彼女も宿泊した。布団を整えたり、湯たんぽを入れたり、糖尿病のための料理をしたり、もうこれ以上無理、と泣きそうになっているのに、朝、インスリンの打ち過ぎで、血糖値が下がり、「何でもいいから食べさせてくれ」と頼む母に、心底疲れ、それでも帰りたい時間になると、車を運転して実家に送り届けていた。

 どうして、何故、苦しくて壊れそうになっている私が、「苦しいのだ」と発言しているのに、私にものを頼むのだろう。

 引っ越してくると、様々な勧誘が訪れてくる。立っているのもつらいので、早く帰ってほしい。私をゆっくりさせてほしい。自治会の誘いが来る。「病欠」では通らない。班長の奥様が、「自分ではわからないから夫に訊く」と答えを引き延ばす。毎年、班長が替わる度に同じことが起きる。

 娘が一人暮らしから家に帰った理由、私の病気は「表向き」の理由なので、家事はなにもしない。イマドキの贅沢な、散らかしっぱなしの暮らしぶり。それは我慢できる。許せないのは、私の病気を理由に会社の休みを取って、アイドルのコンサートへ行ったこと。二度と来なくなった実母の代わりに、また世話のかかる家族が増えた。彼女がためていくゴミを片付ける。大量のアイドルグッズを片付ける。書類を整頓する。そして、狂ったように叫んで、物を壊し、また向精神薬を飲んだ。