見えるけれど見えない

 目の手術をして約三ヶ月、見え方が安定してきた。目の奥が痛いが、目の所為では無く、持病の症状らしい。パソコンは裸眼で見えるし、メガネを使えば1.0の視力がある。術後、ガーゼが取れた瞬間から、かなり見づらいぼやけた感覚があったが、それは目の内側の老化らしい。

 とにかく二月以前の自分を振り返ると、ほぼ、明暗しかわからないくらいだったとわかる。七年住んでいるのにまだ隣近所の人の顔も覚えてなかった。個々の雰囲気や会話の成り行きなどで判断していただけだった。

 多少、部分的にぼやけていても、常に乾いていても、見えるとは素晴らしいことだ。ありがたいことだ。

 目は治ったけれど、持病は治らないので、このブログの初期と同じように、身体の状態は良くない。目が見えるようになったので、文章を打ちやすいし、本も読みやすい。せっかくなので、命ある限り、自分の精神世界を深め、広げたい。

 私にとって、奥深い味わいのある小説やマンガなどの作品は、飽きること無く繰り返し読める。身体の苦しさは、それだけでかなり耐えられるし、口に出さなくなった。

 問題は、以前と変わらず対人関係が難しい。機能的に視界は開けたが、こころのあり方は変わらないので、話の内容が他人と合わない、自分の好きな物を、笑われたり、わからないと言われたりすると酷く傷付く。向精神薬に頼らないと立ち直れない。仕方が無いので、ログの残るツール、ソフトは控えめに使う。

 ネットの場合、今は同病者が多いので、わかり合えるネット知人が増えた、といっても、そもそもべつの人間、個々の人間同士なので、あまりわかってもらいたがると(わかってもらいたがりではないが)、感覚的な遠さをしみじみ思う。

 私は、ネットやつきあいの浅い人から「上から目線」「(皮肉に)ディープ、ヘビー」「理想が高い」と言われがち。普段、そのようなふるまいは思いつきもしないので、指摘されると、修正しようとする癖が出る。誰にでも当てはまる臨床心理みたいなものなので、気にする必要は無いと、理屈では知っているのに、実践できない。

 「上から目線」って、私の人生の中では、ウェブ生活の後半に知った言葉で、意味もよくわからない。「理想が高い」も言葉としてはわかるが、おのれが理想が高いとはどうしても、もとい、理想は無いので困る。