アメリカの話

 知人から聞いた話です。アメリカで、日本人の女性が唱えた説に基づき、認知症の治療が行われているそうです。薬も開発されているとか。

 又聞きなので、正確にはわからないのですが、大まかにこんな内容でした。認知症とは、人間が死に直面したとき、やり残したことがトラウマになっている、それを再認識し、心の痛みを分解しようとするとき「発症する」・・・

 なんだか、昔読んだ、ユングの精神医学のようだと思いました。人間は一生を、内面の向上に注ぎ、その奇跡は螺旋階段の様相を示し、上り詰めてゆくほどに、人間性を完成させる・・・そのようなことだったと記憶します。

 残念ながら、日本ではまだ、アメリカのように薬を臨床もしていないらしいのです。ユングは突き詰めるとオカルトのような感じがします。上記の認知症療法も、「心理学」って感じがしました。
 個人的に、心理学と医学は別のものという気がします。病名がはっきりせず、あちらこちらをたらい回しになり、最後に、精神科通院となりました。十年近く通ったとおもいます。そのうちの半分くらいは、臨床心理技師との対話でした。
 精神科については賛否両論ありますが、私は、カウンセリングが好きでした。初心者の時は、小説の『鑑定医シャルル』のように、私の心の奥深くに眠っている心の傷をえぐり出し、分解して「治してくれる」ものだとおもっていましたが、現実には、二週間に一度、五十分間、心理技師のセンセを前に、一方的に話すだけでした。
 好きな絵、本、精神医学、植物、旅行、歴史・・・ありとあらゆる話をしました。センセはタダ聞くだけです。なんだかつまんない、と感じていましたが、センセが退職されて、新人のセンセに変わるとき、「土岐川さんの話は、とてもよい、是非、カウンセリングを続けて、新人の先生にも話してください。勉強になるから」と褒められ?押し切られた感じで、新人のセンセと対面しました。
 新人のセンセは、新人だからか、わりと、私の話に突っ込みました。例を挙げるときりが無いのですが、私の話癖なのか「フツーそうじゃないのに」と繰り返してしまいました。そのとき、「『普通』というものは人の数だけあり、その基準も人の数だけあります」とおっしゃいました。

 そりゃそうですとも!わかっているけど、話し言葉の中には「フツー」をやたらといれてしまいます。ある意味、院長先生は医師なので、化学と物理的に処方箋を書きます。それは絶対的な価値観だと感じます。そしてカウンセリングのセンセがおっしゃることは、相対的価値観です。
 社会は、相対的価値観では動きません。人の数だけフツーがあれば、「人殺し」が「フツー」な人も認められなければならなくなります。

 アメリカはその点、日本みたいにしゃかりきな西洋医学にこだわらないのかなぁ、などと感慨を持ち、また、日本の西洋医学が意固地にもおもえました。

 認知症の治療法が、線維筋痛症の治療にも有効だといわれています。私たちは、どんな大切なものを忘れて、どう取り戻し、おのれのなかで分解するのでしょう。