父の死

https://tokigawahiro.hatenadiary.org/entry/20181228/1545999632

 ここに家族のことを書いておりますが、唯一愛していた父が今年一月十一日に他界しました。

 

 いままで多くの葬儀にまつわる行事に呼ばれて、黒エプロンで死ぬかと思うほど作ったり運んだり酌したり、もうダメだと思ったところでレア病になったので、今度はリクライニング車椅子が邪魔な部外者になりました。

 父の転院場所も知らされず、死に目にも会えず、言っても露骨な冷たい目。初盆には連絡も来ませんでした。

 私は、匿名掲示板に卑怯なことを書かれるとき、「自分語りをやめろ」という内容のものが多かった。そもそも創作の裏サイトなので、目立つと嫉妬で書かれるのですが、創作は創作、自分の事情など一つも書いていませんでした。「知りもしないでよく書くな」と思っていました。「土岐川は世界を憎んでいるんだ」とか。

 そこまで壮大に何かを憎むのも大変だろうなぁ。詩も小説も私が書いたので私の意図に基づいてある。アニメとバンドとゲームと学歴にしか興味が無い若い人には理解不能かも。くらいに思っていました。

 ブログなどにはちょこちょこ思うところを書いていて、実家について「缶ジュース一つもらって帰ったことは無い」というところに強く反応し「相当荒れた家だとわかる」と感想をいただいたことがございます。

 

 もうなにをどう書いたら良いのかわからないほど完全に壊れた家の中で、父だけが唯一の愛でした。でも、母と姉は常に父をばかにして罵りまくっていました。父に似ているという、自分ではよくわからない点で私も憎まれていました。

 葬式の日、何でも気に入らない姉は悪態のつきまくりでしたが、親戚知人が来るたび、涙をこぼして「お父さん、良かったね」と父の遺体に話しかけていました。私の夫が、そういう姉を「気持ち悪い」と言っておりましたが、私と父以外の人には外面が良いのはわかっていたので、まあこんなものだろう、と感じていました。

 

 私にできることは人の邪魔にならない隅っこで、多くのいとこたちが話しかけに来るたび穏やかに笑いながら、頭の中で急ピッチで名前を思い出して答える、それだけ。多分そういう私にも腹を立てていたと思います。姉の家族はね。

 

 私の中の父は、子供に甘く優しい人でした。でもなぜか実家の人たち全員が小馬鹿にしている。今更何をしても通じないし、父の死んだ今は、なるべく関わり合わないように、私は最初からいない人のように振る舞うだけです。実家の隣がいとこの家なのですが、初節句について電話したところ「もうあきらめろ、付き合うな」と釘を刺されました。母がプチ家出したり、心の重荷を話して歩いた親戚に対しては、姉は絶対に許さないでしょう。

 彼女はよその人から「いい人だ」と思われて愛されたい。一人では無く、大勢の人から愛され味方になって欲しい人です。子供のと聞から「跡継ぎ」「嫁がせる子」と区別して親に躾られ、嫁いだ私を「ひろ子はいいね、自由になって」と言いました。

 限界集落に嫁いで、いきなり高齢化問題に付き合わされ、異文化の中に立たされ、古い家の長男の嫁を演じる私の苦労など、つゆほども想像できない。

 母は母で、私が姉の言うことを聞いても姉が気に入らなければ、怒って電話し酷いことを言う人です。なぜか親戚中そういうタイプなのですね。

 同級生の友達など「誰か人を介して和解しろ」と言うのですが、私にその気があっても、姉は私の存在を無くしたいのですから無理。

 ウィルス騒ぎのさなか、父のいない空虚と、ストレスを抱えて、こぼさずにおとなしく寝たきりをするのはかなりつらいことでした。

 

 生前の子供をかわいがる父は、父方いとこたちには有名でしたが、姉の二人の子供だけが意味がわからずきょとんとしていました。

 三年近く、病院を移りながら、一時帰宅しても連絡をくれませんでした。なにがなんでも私を家に入れたくなかったようです。

 でも父は最初から最後まで「家に帰りたい」と言い続けました。病院へ会いに行っても、私を認識していたかどうかもわかりません。

 父は他界し、私が死んだら、もう誰も、本と自然と歴史と、甘い紅茶にういろを添える、ただ笑い合って甘い飲み物の底に沈んだ角砂糖を掬う、あの父は、もう私しか記憶していません。

 

何を求めて

 日本の与党は、アメリカで言うと民主党と似ているという。では日本の野党はなんでしょう。ネトウヨと自称している人たちは、反中派・反韓派の与党についても嫌っている。

 私にはそれは、隣の国が嫌い、という「好み」に見える。社会主義中華思想と独裁というアンバランスな物を抱えて、広大な領土を持ちながら、一帯一路政策で、アフリカやヨーロッパまで投資し、移住し、中国的文化に変えてしまう。これは怖い。百年後には月から資源を持ってくる、という軍事パレードの後の挨拶で言う姿は、日本人から見れば受け付けない。月って中国の物ですか。私は「狂気」だと思いました。

 また、反韓派の気持ちもわかる。半日活動が多すぎて、日本人は嫌気がさしている。ネトウヨたちの目指すのは何だろう。中国との関係を絶ち、韓国とも関係を絶つ?両国ともに、日本にとっては市場であり、国産より安価な物を買えて、少ない純粋収入でも生活できているのに、鎖国して内需拡大し、両国とは関係を持たない?

 それとも、もっと過激に、両国と戦争して日本の領土を維持したいのか。それならロシアの北方領土もロシアと戦争して取り戻すのか。

 アメリカの基地だらけの状態でそれが可能か。

 日本人は平和が好きだ。ネトウヨの人たちは気に入らない国と付き合わない日本にするのが目的か。

 たったそれだけのことで気に入るサイトだけしか観ないお子様のネトウヨを増やす目的は何だ。

 実は私も「半島へ帰れ、○ク」と名指しで書かれたことがあります。ヒト型白血球抗原を調べたことがあり、私は典型的な日本人タイプだったのですが。他人を誹謗するのに他民族を引き合いに出す愚かさ。それが嫌がらせになると思っている単純な思考。

 もっと、徹底的に、資本主義、自由主義を守るため、社会主義国を打ち倒し、日本に居座る他国の軍隊を追い出し、自衛隊が跡地で活動し、軍事予算を増やすのならば、私は課税も気にしない、有事に出兵に参加する、くらい書けば良かろう。持たざる物は皆殺し、資本主義にとって優秀な遺伝子だけを残し、自分はそれに値する選ばれた人間だ、と言い切れるならば。

 共産革命は、「持たざる物が持つ者から奪うためには虐殺もいとわない」という考え方、右でも左でも突き詰めれば同じようなものです。

 HP時代からツイートまで、ずっと変わらない、「カテゴリ分け」。読書の感想から初めて、随筆風にしたり詩作、掌編を書いたり、今では「レア病」について公然と書いている。 

 素人の批評もカテゴリから入る。こんなの推理小説じゃ無い、時代小説じゃ無い、ファンタジーじゃない。**だからすき、☆☆☆五段階で☆一つの理由がこれ。逆読みでその人の嗜好がわかる。これは性別で分かれる。どんなにジェンダーフェミニズム、その他の理屈をつけても、男女の好みは一致しない。 

 あまりに酷いと感じたときはきちんとメールか掲示板に意見するけれど、大抵ケンカになる。そこは老若男女同じ。 

 ネットでは、無意識にでも他人を否定できない。相手の「すきなものはすき、なにがいけないの」という断り書きに対し、好きな物を強調すると「嫌いな物」の強調にもなるんだよ、と書きたいけれど、きりが無い。 

 思い通りにならないと言い訳する。「別垢」なる物を作って見る人を限定する。アカウントをわざわざ垢にするとすごく卑屈に見える。私はこうなの、と書けば書くほど見苦しい。 

 私も他人のことを言えた義理では無いが、誰かが作った垢というウラアカウントを宣伝しなくとも、黙って別アカウントを作るでも消すでもしたらよろしい、とおもう。文章にするとキツイ感じに見えてしまう。 

 ことにツイートなど、もともと「鳥のさえずり」という意味なので、他人の千差万別な感情を仕分けするほど自分自身が落ち着かなくなる(とおもう。私は垢なんぞないので推察) 

 他人の感情に過剰に反応する、自分の「見られ方」を過剰に意識する。そしてカチンとくると退会するかブロックするか… その行為自体がおのれの見え方を意識しなさすぎる。 

 私は自称ネトウヨ、その反対側の人たちもまんべんなく拝見している。アニメや自然の話もする。ふと気づくと、私はネトウヨよりも右寄りな思考を確認した。日本人は全員中道左派に見える。そして私は中道左派的に物を書く。意図的な行為だ。 

 時代とともに若い人たちが、右左極端で過激につぶやく。そしてすぐ別の話題に移る。ついていけない。 

 病気のことなどを書くとすぐに左派にされる。なんだかレア病という浅くて広く目立つかさぶたで、小さく深い傷を隠しているようよう。ウェブの世界などで「本当の自分」なんぞいらない。

【三島由紀夫と私】 三十回目の憂国忌に

  初めて読んだ三島作品は『金閣寺』だった。高校の時、現代国語の夏休みの課題図書で、休み明けには それが国語のテストになるのだった。詳しいことは忘れたが出来は悪かったと思う。しかしそれがきっかけ で三島由紀夫の本を読むようになった。
 本を読んでいると意外な結末とは滅多に出逢わないのだが、『豊饒の海』は意外な結末だった。ずっと以 前、まだ読書体験の少ない時期に読んだのでそう感じただけかもしれない。この作品は輪廻転生の話だ。 一巻において、二十歳で死んだ青年・松枝清顕が、二巻、三巻と別の人間に生まれ変わり、やはり皆二十歳 で死んでしまう。その経緯を、一松枝清顕の親友・本多が見守っていくのだ。そして最終の四巻で三度青年 の生まれ変わりと推測される青年に出逢うのだが、(ネタバレします)どうやら彼は「偽物」らしい…。 衝撃を受けた本多は、一巻で死んでしまった青年の恋人に会いに行く。青年との恋愛の果てに尼寺に身を寄 せたはずの門跡は、 「えろう面白いお話やすけど、松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方はも ともとあらしやらなかったのと違ひますか?」 と応えるのだ。『豊饒の海』は三島由紀夫の最後の作品。三島由紀夫自身の存在を幻としたかったのではな いかと思わせるラストである。

 難しくて敬遠しがちな三島文学だが、比較的気楽に楽しめる本もある。『反貞女大学・第一の性』(筑摩 書房)「反」「貞女」「大学」というネーミングが既に時代がかっているが、面白い。  「女大学」の貞淑に反対し、男の哀しさを笑いながら、逆説的に女性の生き方にエールを送っている。 -引用- 人間生きていれば絶対の誠実などというものはありえないし、それだからこそ人間は気楽に生きていける のだ-中略-『絶対の誠実』などを信じている人たちの、盲目と動脈硬化はおそろしい。 -引用終わり- とても良い結びである。

 『第一の性』はヴォーヴォワールの『第二の性』から採ったものらしい。諧謔を発揮しながらの男性論。 いろいろな著名人について語り、最後に「三島由紀夫という小説家」について書いている。とてもかわいい 男だと思う。三島由紀夫三十九歳の作品。彼が大嫌いだった太宰治は三十九歳で入水自殺している。 「しかし、彼も亦、一個の男子である。何かそのうち、どえらいことを仕出来すこともあるでしょう。」 最後の辺りでそう書いているのが悲しい。
 三島作品としては変わったところで『音楽』も好きである。解りやすいし、今読んでも興味深い精神分析 医の話である。『午後の曳航』は少年犯罪、『青の時代』は破綻した青年実業家が描かれていて、バブル後 の不景気や少年犯罪の問題など、時代を先取りしたとも感じられる。

 日記やエッセイなども面白く、現在、社会に揉まれて悩んでいる人が読んだら共感できそうな、三島由紀 夫的、社会・人間に対する深い洞察がある。  評伝に書かれた、祖父・父・三島、祖母・母・三島の三代の相剋も興味深い。明治・大正・昭和、時代の 激変の中で生きてきた家族、家庭の姿には、多くの疑問や煩悶を感じる。  第二次世界大戦当時、三島由紀夫の学友達は海軍仕官を希望するものが多かったという。陸軍は評判が悪 かった。片田舎の貧農出身の若者が多く、軍隊としての統制を欠いていた。海軍は高学歴エリートが多く、 比較的に人気が集まっていた。三島由紀夫は兵役検査不合格で戦争に行っていない。

 太平洋戦争末期、戦況の悪化を理由に学徒出陣が強行された。東条英機はずいぶん喜んだという。テレビ で、学徒出陣を経験し生きて帰ることができた人々のインタビューを観たことがある。現地へ行って、 「これはダメだ、日本は負ける」 と思ったそうだ。兵隊は訓練されておらず、イジメが横行し、上官は無能、敵国に情報が全て漏れている、 下級兵士は弾よけ扱い。いきあたりばったりで何も考えられない軍隊が現場で右往左往していた。

 三島由紀夫は大正十四年、東京市四谷区に生まれた。借家ではあったが女中が六人いる家で育った。昨年 の十一月二十五日は三島由紀夫没後三十周年。大型書店に行けば、特集雑誌や復刻版の評伝などが特設され ていた。それらをいくつか読むと、三島由紀夫は時代のスターだった。  その生い立ちに大きく影響したと思われる事件が、三島由紀夫十二歳、学習院の生徒だったとき起こって いる。二・二六事件。彼はその時代の空気を直に吸っていたのだ。

 ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫-ある評伝-』(新潮社)は、外国人から見た三島由紀夫の姿とい うことで、非常に興味があったのだが、今まで本が手に入らなかった。他の評伝にはこの本のことがよく引 き合いに出されていたのだが、三島由紀夫夫人に出版を押さえられてしまったことがあるようで、読むこと は敵わないと思っていた。それが今年どうして復刊されたのか事情は知らない。

 三島由紀夫の祖父定太郎は農家の出身、苦学しながら二十九歳で法科大学(東大法学部)を卒業し、当時 「平民宰相」として人気を集めていた原敬のもと、官僚となった。祖母なつは大審院判事永井岩之丞の長女。 なつの母は宍戸藩主松平頼位の息女。(しかし正妻の子供ではなかった。)二人がどういった経緯で結婚し たか、説明のある評伝をまだ読んだことがない。

 板坂剛『極説 三島由紀夫』では、なつが、行儀見習いに預けられた有栖川宮家の親王と恋愛していたの ではないかと推測している。平成の今、私にとって、そういった「身分」の話は身近でないが、三島由紀夫 にとって十二歳まで彼を育てた祖母の影響は大きい。武家の出自で公家にも近しい経験を持つ祖母の、優雅 で華麗な王朝物語の世界を、三島由紀夫は受け継いだ。

 批評行為は批評の対象となる作品への、作者と同等以上の知識、人間的包容力、理解がなければできない。 三島由紀夫太宰治が嫌いだった。評論家は、「好きと嫌いは表裏一体だから、三島はホントは太宰が好き だった。」とか「太宰の才能に嫉妬していた。」と書いている。

-引用-
太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される 筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。(三島由紀夫『小説家の休暇』より)
-引用終わり-

  私は、人間思ったことと書くことにはどうしても距離が出るし、思ったことも表層と深層意識では無自覚で あっても、かなりの差があると考える。が、ここまで書いていて好きの裏返しなものか。

 『新版・三島由紀夫-ある評伝-』は文章が良い。これは訳者(野口武彦)の文章力だろうか。文章には 人格が表れると思う。私がものを書くと、「私の痛み」が目一杯盛り込まれてしまう。書くことを感情のは け口にするまいと思っていたけれど、感情で生きているものを、それ以外の形にして昇華するなど、どだい 凡人には不可能なのである。
 三島由紀夫の評伝を読んでいると、そういった今の自分と重なるところがある。 芸術家と自分を重ねるのも図々しいと言えば図々しいけれども、小林秀雄が書いたように「批評とは他人の 作品を通して自分を語ること」ならば、ジョン・ネイスンは三島由紀夫の人生を通して自分を語っているの である。
 ネイスンは私が注目した部分と同じ所を引用していた。

-引用-
生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならない(『小説家の休暇』より)
-引用終わり-

  太宰治に対する文章だ。これに続く、「治りたがらない病人などは本当の病人の資格がない。」について、 「ほかならぬ自己自身を病人と見ている三島の感覚であり、そこから回復しようする意志である」(ネイス ン)と書いている。著者は『午後の曳航』の訳者であり、三島から新しい小説の英訳を頼まれ、期待を持た せたにもかかわらず、大江健三郎の作品を手がけ、三島作品を「世界中でいちばん金ぴかな額縁の展覧会に 行った。」と評した。しかし、そこには三島由紀夫に対する点数的な評価態度は感じられない。人の一生を 真摯な態度で「評伝」として一冊の本にした、という印象だけが残った。

 三島由紀夫はマザコンだった。十二歳まで「お母さま」に甘えることを許されなかった反動だろうか。 三島の死に際して、『新版・三島由紀夫-ある評伝-』には、ネイスンが彼の母倭文重の言葉を、痛みを持 って受け止めたことが描写されている。

-引用-
『お祝いには赤い薔薇を持って来て下さればようございましたのに。公威(三島のこと)がいつもしたかっ たことをしましたのは、これが初めてなんでございますよ。喜んであげて下さいませな。』  弟千之が語ったような『いつも存在しようとしながら存在できなかった』男のために、喜びを表明するこ とはなまやさしいことではない。
-引用終わり-

 三島の評伝には、「なんだかこの人は『好き』が高じて悪意の批判をしているのかしら」みたいな感じがするのもあるし、「思想的立場に左右されてるのかな?」もあったし、故人と親しく、哀惜のこもった作品 もあった。
 平岡梓『倅・三島由紀夫』を読むと、三島由紀夫自身と彼の父親とは、魂の部分で共有していた ものは何一つ無かったのではないか、という気がする。
 三島由紀夫が松の木を指して「アレは何の木?」と訊いた、というエピソードがある。学習院の敷地には 松が植えてあったし、小説の題材は何でも入念に調べる三島が、松の木を知らないはずがないので、冗談説 や分裂症気質の症状など、色々と物議を醸しだしている。
 小説『美しい星』を書くに当たって、三島由紀夫はUFO愛好の会に参加し、一時は熱狂的UFOファン であったとか。作品はSFを愛好する人ならば「ありえない設定」である。木星人、金星人などなどが登場 するのだ。三島由紀夫は松の木を知らなかったのだろうか。SF愛好者の定義から外れる設定を「知らない で」書いたのだろうか?

-引用-
 小説における『まことらしさ』という問題が、大てい、作者とその小説との密着した関係によって保証さ れるという現状である。-中略-つまり読者は小説を小説として読む習慣を失ったのである。-中略-私は 日本における小説の読者が、いかに「素朴なリアリティー」にとらわれて小説を読むことを愛するか、とい う言い古された現象をもう一度提示するにとどめる。
-引用終わり-

-引用-
 今私が赤と思うことを、二十五歳の私は白と書いている。しかし四十歳の私は、又それを緑と思うかも しれないのだ。それなら分別ざかりになるまで、小説を書かなければよいようなものだが、現実が確定した とき、それは小説家にとっての死であろう。不確定だから書くのである。四十歳になって書きはじめる作家 も、四十歳に達したときの現実が、云おうようなく不安に見えだすところで書きはじめる。真の諦念、真の 断念からは小説は生まれぬだろう。
-引用終わり-(三島由紀夫『小説家の休暇』より)

 後年、三島の思想活動に対して「あなたはいつ死ぬんですか?」と言った文化人がいた。三島は著作の中 でそのことについて書いていたし、各種評伝もそのことについてふれていた。言った側の悪意を感じる。 大塩平八郎の如く陽明学的に、「実践して死ね」と言いたかったのだろうか。  また、『憂国』を読んだファンが「興奮した」と三島に言い、それについて彼は「私の小説はポルノとし て読まれたのである」と書いていた。映画『憂国』も、多くの人が、情交シーン目当てに集まったという。
 評論家奥野健男は『三島由紀夫伝説』の中で、『憂国』の切腹場面の描写が苦痛で読めないという主旨を 書き綴っている。私もあの描写はダメだ。たとえ「小説」としてでも読めない。
 ある作家だったか、批評家だったか、「君は平民なのに何故華族を描くのか」と三島由紀夫に訊き、三島 の方は絶句した、という話が印象に残っている。前述の奥野健男は、同じ学習院で「平民」と書くのが辛か った、と書いていた。三島作品の中で、華族の子息たちを描写したものがあり、それらを読むと、三島由紀 夫が必ずしも華族に対して無邪気に憧れを持っていたわけではないのが解る。

 『テロルの現象学』(笠井潔 ちくま学芸文庫)も三島由紀夫について批評している。けれど…
-引用-
三島の『天皇アナーキズム』論に帰結した右翼的・天皇主義的革命思想は、左翼的・マルクス主義的革命 思想よりもはるかに重要な思想課題を提起している。それは一方で『宗教-法-国家』という共同観念の 累積史に内在する謎めいたものに触れているばかりでなく、他方で党派観念を媒介しない自己観念と共同観 念の「直結方式」という、観念の発生史における固有の水準をも体現しているからである。
-引用終わり-
 …読んで意味解る人は偉い。じつに笠井潔らしく色々と論じていらっしゃるが、つまりは 「筋肉とプロポーションが衰えるよりも前に早くに死んでしまおう……。」ということらしい。
 三島由紀夫の作品を読んでいると、三島由紀夫はお年寄りが嫌いだったとしか思えない。
 澁澤龍彦は 『三島由紀夫おぼえがき』で、「あれだけ鍛えた腹ならさぞ切り甲斐があったろう」というようなことを書 いていた。真面目で融通が利かなくて、ついからかっちゃってたんだけど、ぢつは、彼のことが大好きだっ たんだよ、みたいなノリで書いている。その言葉の端々には三島由紀夫の死に対する哀しみが窺える。三 島由紀夫が、本当は何も信じていなかったことを、澁澤龍彦はよく理解しているという感じがした。

拝啓
 三島由紀夫様 お元気ですか? といっても三十年も前に死んでしまった貴男ですが、 手紙とはこういう書き出しなものなのです。
 お友達の辻井喬さんは「三島由紀夫は孤独だったのだ」 とお書きになっていました。孤独でしたか? 自信作は批評家に酷評される、力作はプライバシー侵害 で訴えられ敗けた、売れた作品はファンが誤読していた…。
 孤独の意味を人は観念として捉えることが 出来ません。物質的な目に見える孤独しか理解できない人が、物に囲まれて満足しています。どなただ ったか著名人が「三島由紀夫は青春を謳歌した経験がなかったのではないか」というようなことを書いていましたが、自分の青春を基準に他人のことをとやかく言ってはいけませんよね。
 大人になってから ボディービルをして、映画に出演して、私設軍隊(?)作っても、いいぢゃありませんか。子供時代に 喪失したものは取り戻せないけれど。
 どーせなら百歳まで生きて万年青年を気取ればよかったのに。歳をとるっていけないことですか? 「デリカシイのないのは、子供の会話で、びっこの子をつかまえて『やーい、ビッコ』などと言って いる。女の会話も、無意識にしょっちゅう相手の禁忌に触れ(後略)」とお書きになっているような デリケートな貴男ですもの。死後、ご自分についていろいろな批評が出ていますから、ご覧になったら 頭に来るかと思います。貴男の名作『金閣寺』は、主人公は吃音で、その友達は足の不自由を逆手に取 り女たらし。そういうのって、人は禁忌に触れたがらないので考えないけれど、禁忌だということを 自覚できなくて、無遠慮に誹謗したりします。
 三十年経っても人間の感情って変わってません… 貴方が生きてたら、やっぱり、ドイツもコイツ もけしからぬ「『絶対の誠実』などを信じている人たちの、盲目と動脈硬化」を嘆くことと思います。
 先日、貴男があまりに嫌いだと仰るので、太宰治の本を買ってきました。なんだか文体が読みにく くてかないません。けれど、
「人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違い をしているような気がして、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。」 (『人間失格』より)
 …これって、貴男も同じぢゃ、なかったですか? 私は同じです。
 そういう気持ちに思い当たったことの無い人の方が異常だと思います。自分に疑問を感じない人は、 小説など書く必要がありません。「作家」と呼ばれたいと願うことと、自分の中の矛盾を小説として 書かずにいられない衝動は全く種類が違います。貴男も太宰治もそういう質の人だったのかな、と考 えたりしています。三十年目の『憂国忌』は盛大だったそうです。    敬具

 笠井潔の『哲学者の密室』に、「『死』に特別な『死』はない」という意味のことが書いてあったと記憶 する。「存在」の哲学的意味を問い、ナチスの虐殺行為を描写し、「崇高な死」「特別な死」などあり得な いと…。
 他者にとって三島由紀夫の割腹自殺は、マスコミ報道のネタだったり、評伝の題材だったり、読者 の好奇心だったりしたが、三島由紀夫自身にとって、死に向かって走っていた時が一番「生きて」いたのか もしれない。
 皆が三島由紀夫に利用された、裏切られたと感じたらしい。その思いはどこから来るのだろう。皆、三島 が好きだった。三島の「一番」になりたかった。三島に自分を認められ、自分の求める三島を欲しがった。 ところがそれらは、三島自身が他人に受け入れられたがっていた三島とは、少しずつずれていた。人は誰で も、自分の理解されたい部分を受け入れない他人を、許容できない。受け入れられないのならば、自分の荷 物は自分で運ぶしかない。三島由紀夫はそうして自分の荷物を運んだのだという気がした。最も三島由紀夫 を受け入れることができたのは、三島を介錯した森田必勝だったのだろうか。


2000.1.6

りんご

うちには林檎の木が三本ありまして、家の裏側、南西の角に植えもはや四、五年です。移り住んで十年余、林檎の苗を買った頃には、土のある場所がなくなってしまって・・・日当たりが好きな樹木は東南角地が良いんですけど、場所が…ということで、西隣のおうちの東南角地、排水の側溝境界線をまたいで、西南は隣家の東南角地。 

なるべく隣のおうち、西と南には家が隣接しているのではみ出さないように気をつけています。山中に道を作って、両側に二十数件建て売りが並んでいる、見渡す限り棚田と針葉樹だと思ってね。あまり書く、写真を載せると、以前のようにグーグルの衛星写真で場所を特定する人も出てくるのですが、もうそうなってしまったのでいまさら抵抗しない。 

で、東京、名古屋、大阪のビル群を見ていると、全面灰色、コンクリートジャングル、地価高っ。親がそういうところに家でも建ててくれていたらなあ、とか思ってしまうわけです。もはや相続税が支払えない。限界集落に嫁ぎ、転勤族となり、買い物や医療のことを考えると、少しでも交通の便の良いところ、そして私たち家族でも支払いできる価格、となると土地価格は低く、中古の格安で、車で移動できる立地・・・いくら岐阜県の僻地でも、駅前商店街のあるような場所は買えません。価値以上に高い。持ち主の価値観は都会の人よりもプライドがあるかも。 

そういうわけで、針葉樹林に住んでいると、やたらと落葉樹が恋しいの。 

なにを植えてもほったらかし。私の健康ではそれほど手間は掛けられません。でも林檎やブルーベリー、さくらんぼ、薔薇、ハーブなどを組み合わせて、日向と半日陰と日陰、という生態系を作れます。田畑はなくても、庭を一週する花壇を作り、北向きに育つ樹木、南向きが好きな花、庇が必要な花。 

そうして沢山出来てしまった林檎は、全部放置すると、木の幹から傷んでいきます。樹皮の下を血管のように流れる栄養がとどかなくなり、葉が落ちても、枝が枯れそうでも、木の実を育てようと力を尽くす・・・まことに気の毒だとは思うのですが、一枝に一つ程度に木の実を減らします。途中でもがれる気の毒な林檎たち。

上下左右右左

私がここ半年ほど、自分の生い立ちなどを書いていたのは、過去が憎いとか、世の中の所為だとかの恨み節ではありません。電脳世界の隅で地味に文章を書く人のつもりが、レア病のせいで、「さすがトッキーさん」と持ち上げられるようになり、どうにも居心地が悪いのです。

ここに書くものは、ブログにコピペしているものもない物もあります。はてなダイアリーが一番、己自身と向き合える、・・・ネットに何か書けば何事か在るのは相場ですが、わりと静かで、誰も読んでない感じがします。

一所懸命で「いいね」営業している人はアルバイトですかね?私はそんなものイランので気楽です。「書ける場所」があり、誰かひとりでも見てくれる人が居ればラッキー。

子供の頃、私は褒められたことが無かった、何をしてもどこを向いても叱られてばかりでした。元々の性格もあるでしょうが、他人から否定的なことを言われると、傷つきはしませんが、何が何でも、相手が気に入るまで、自分を是正しようとしてしまいます。

上下左右右左、どこを向いても私を叱る目があり、土岐川祐というペンネームを思いつく以前は、こんな風に思っていました。

崖がある。陣取り合戦のようだ、人が迫ってくる。私にねだる、私を裁く、私はおののき、退く。かかとが崖の縁にかかる。崖は遠慮無く崩れていく。私はくずおれる崖の上でつま先立ちしている・・・

掌編や詩を書いていたとき、私はそう感じていました。記憶をさかのぼり、袋貼りをしている母の横で、母の好きな戦中・戦後の歌を歌う。学校唱歌をリコーダーで吹いて、ときどき母が褒めてくれる。ヒロ子は歌が上手だ。笛も上手だ。ミシンで縫う内職の時も、同じように歌いながら布キレを数えました。どこまでさかのぼっても、母が私の手を引いて、実家や親戚を巡る。

木曽の宿場に母の伯母が嫁いでいたので、夏の多くをそこに泊めてもらったり、あるときは、私ひとりで親戚の家にいました。姉と遊んだ記憶が無いのです。父は若いときから、少しは「粋」ということを知っている人でした。中山道の歴史や木曽川に見える城跡の話、紅茶に角砂糖をいくつも入れて、ウチにあった唯一の紅茶椀の底にざらざらと糖分を残して、ふたり笑う・・・

あの記憶は、私が勝手に作り上げたものなのか、父はもう記憶を覆う霧の住人になり、この記憶は私ひとりだけで抱き続けるのでしょう。

どこのおうちに滞在しても「おとなしい子」と言われていました。自分でもわからない、なにか田舎の元気な人とは違うものを見ていた気がいたします。

そんな私が、強直性脊椎炎という聞き慣れない病をいただいて、十年近くになりました。自覚症状を辿ると、中学生の時にはもう、関節炎の兆候はありました。まだ医学が発達していなかったし、田舎のことで医療機関もありませんでした。そのことで、家族その他の人に対して何も感じませんでした。今も感じません。

私は家の中では「不要品」みたいでした。何事にも自信が無く、消極的。それがレアな病気の掲示板を作り、さらに他の人のけいじばんを引き継いだことで、狭い世界で名前だけ一人歩き。たまに誘われてチャットしても、「ハイテンション」などと言われたり。ううん、一生懸命あわせているだけなんだけど、と思ったり。

母は文盲だとツイートしたら、高齢でも学問した人の話をリンクされました。他にも不幸を乗り越えた人が居るから、私の母も努力するべきでしょうか。学問は、それを受けられるおうちと、そうで無い家がある。ルーツは不明ですが、たぶん母方の父は、どこかから流れてきて、定住した小作人で、戦後農地改革で田畑を持った人なのでしょう。

学校へ上がる前から「子守奉公」、後に妹が引き取られた家に奉公し、実の姉なのに、他人として育ちました。「かあちゃんはがっこういっとらんでわからん」私が何を聞いてもそう言う人でした。他のお母さんは家庭科でもなんでも手伝ってくれるというか「やってくれる」ので先生に褒められるのに、私は自力で、学校で「悪い例」として皆の前で晒されました。

親子でものすごいコンプレックスを持つ育ち方をしたことになります。今年ほど自分の生い立ちや家族のことを書いたのは、長いネット経験の中、初めてのことです。

とあるSNSでは、どの大学院を出たか行くのか、そういうもので差別化したり罵ったりしていました。高卒で主婦の私には理解できない世界でした。恥ずかしくて年齢も学歴もなにも言えませんでした。

でも、今は言えます。レア病が、私に「しっかりしろ、自分で決めろ」と教えてくれたのです。私はスマホで読むには長文過ぎる。私は自分のことばかり書く。私はそれで良い。他人にわからなくて良いのです。「何でもできるトッキーさん」はなにもできない鈍くさい子供という親や先生や級友の視線が怖くて、ひたすらおとなしくしていただけの馬鹿な女です。

母が本当に文盲だと「知った」のは、嫁いでから、時折、私が手紙を書いた、そして返事が来ると、旧仮名遣いのひらがなでみじかく、生まれて初めて、実母が気持ちを文章にしたものを見たのときでした。

「おかあちやんはぢがわからんでこんなみぢかひのしかかけんごめんね」

妹の引取先から学校へ行かせてもらったとき、戦争は田舎の隅々まで染み渡り、校庭で芋掘り、町で糸引き、そんなことばかりしていたのでした。母が哀れでした。

中学から製紙工場に雇われて定年まで工員として働いた父、テレビの白黒画面で、洋画を見た。夜勤明けは静かにと言われていたので、目一杯じっとしていると、単車の後ろに私の乗せて木曽川へ連れて行き、日本画家の記念館を見せてくれた。そしてういろうを食べながら甘い甘い紅茶を飲む、知的な父。

あおる

「あおり運転」はやりますね。名詞化した動詞。いやなんです。「オマエは言語学者か」と罵られるんですけど、「煽る」は動詞です。「あおり」としても名詞じゃ無いよ。「○○は××を煽り△△という結果になった。」というように、動詞なの。

こういうのに嫌な感じがするのは、投稿サイトなどで「いじめ」「けなし」「あおり」ダメダシしないでください、って但し書きがあるのを見て、個人運営のSNSでいやなおもいをしたことが蘇る。明らかに幼稚な内容文面でも、芸術作品のように褒めなきゃならないの。

工場で、秒単位でコンベアに乗る製品、一秒間に何回ネジが締められるかで決まる、コンベア要員の価値、鈍い私はネジ締めさえやらせてもらえなくて、人間失格まで思った。その時より奇妙な感覚です。

煽る、扇動する、相手を自分の怒りのペースに巻き込むことかな。これが「運転」だと、私は本当につらい。運転が苦手だし、嫌いなのね。免許も欲しくなかったけど、田舎に住むと免許が無くては生きられない。

父が四十代くらいで免許を取りました。大昔ね。父は運転が上手とは言えなくて、アブナイし、かっこわるいし、友だちと一緒に送ってくれても「トッキーのお父さん運転駄目だね」と言われる。母と姉とで、父の運転を罵りまくっていました。ヘタ、アブナイ、ああいうことをした、こういうことをした、日々、まくし立てていたイメージばかり。

そして私は、「おとうちゃんにそっくり」と言われて育ちました。ものすごいストレスでした。父と私は、母と姉に毎日罵倒されて、どんどんちいさくなる。口答えも出来ず、無口になる。父は年齢を重ねてますますアブナイというので、姉と母に免許を返納させられました。それからすぐですね、黙って取り上げられて、黙って動かなくなって、下半身が動かなくなっても誰も気がつかない、反応の鈍さに怒るばかり。

私は父に似ているので私も駄目な人間だ、と病的に思っていました。高校を卒業したらクルマの免許、というのが世の定番で、私に免許を取れと五月蠅かった。でも私は、怖くて、罵られるに決まっているのが怖い、お断りしていました。

結婚して、子供が生まれて、幼稚園に入り、なにかと呼び出されるので、バスと歩きだけでは不便だと思い、決心して免許を取りました。でも、社に面した道路が一方通行なので、不便かつアブナイと、夫が言うので、そのままペーパードライバーへ。転勤してアパートになり、駐車場が広く、国道に面していたので、そこから運転し始めました。

いつも泊まりがけで遊びに来ていた友だちが、助手席で犠牲?になってくれ、いやいや事故ったのでは無く、超初心者のアブナイ運転に付き合ってくれて、怒ることなく気長に対応してくれました。昔父の運転を批評した人とは思えない・・・人間、成長することも、ある。

クルマを買う、ガソリンを買う、定期的にメンテナンスを義務づけされている、ものすごく高価なものですが、「必要」なのです。私が運転するようになって、実かの親から、嫁ぎ先の親から、なにかと用事を頼まれる。田舎では、親のタクシーになるようなものだなって思います。そうしてたくさん運転して、実家の母に「祐に運転して連れて行ってもらえるとは」と大笑いされました。

何を言ったら怒らないか言葉を探すような、おどおどした子供から、便利に使える子どもになれた気がしました。夫ばかりが便利に使われて、申し訳ないと思い、頼まれれば絶対に断らない、段々私も苦しくなりました。

運転してもしなくても、心が苦しい。今、病気になり、運転できない薬を飲んで、運転できないし、身体能力はさらに下がり、運転させてもらえない。運転しなくなったら、実家と嫁ぎ先から送り迎えを頼まれなくなりました。そして八年、実家の人と会ったことはありませんでした。

ものを頼まれないし、電話も来ない。音信不通。もともと、母に言っても「家」に伝わらない、姉に言っても「母に伝わらない」家でしたが、病気になって使えなくなると、心の底から見捨てられるなあ、と思いました。